歴史について
万葉公園といえば万葉集や柿本人麻呂を思いますが、ここでは万葉公園の別の歴史に注目してみました。
万葉公園の整備事業の完成までの歴史、公園整備中に出土した遺跡、公園内に残る古い歴史など、いままであまり紹介されていないことですが、別の見方でよりいっそう公園を楽しめるのではないかと思います。
資料提供:益田市教育委員会
◎万葉公園整備事業の沿革
◎サガリ遺跡
◎研石横穴
◎道標
◎道祖神
◎蟠竜湖疎水(間歩)
万葉公園の整備事業の完成までの歴史、公園整備中に出土した遺跡、公園内に残る古い歴史など、いままであまり紹介されていないことですが、別の見方でよりいっそう公園を楽しめるのではないかと思います。
資料提供:益田市教育委員会
◎万葉公園整備事業の沿革
◎サガリ遺跡
◎研石横穴
◎道標
◎道祖神
◎蟠竜湖疎水(間歩)
万葉公園整備事業の沿革
昭和55年 4月 | 万葉公園都市計画決定 |
昭和55年11月 | 万葉公園整備事業に着手 |
昭和57年 9月 | 万葉植物園、多目的休憩所、和風野外音楽堂等開園 |
昭和58年 1月 | 第1次公園拡大整備事業に着手 |
昭和61年 4月 | 子ども広場等開園 |
昭和63年 4月 | 第1次公園拡大整備事業が完成し、開園(水と青空の広場、やすらぎの家、石の広場等) |
昭和63年 9月 | 第2次公園拡大整備事業に着手 |
平成 4年 4月 | 第2次公園拡大区域の整備工事開始 |
平成10年 2月 | 益田道路整備計画により公園区域を減面積 |
平成11年 4月 | まほろばの園、駐車場、ゆったりトイレ等開園 |
平成12年10月 | 万葉公園管理センター等開園 |
平成13年 6月 | 太陽の広場(南側)開園 |
平成14年 4月 | オートキャンプ場開園 |
平成16年 9月 | ふれあいの牧開園 |
平成17年 4月 | 人麻呂展望広場開園 |
平成18年 4月 | 多目的休憩所、藤棚開園 |
平成20年 3月 | 太陽の広場(南側)等開園、整備事業終了 |
サガリ遺跡
弥生時代後期の遺跡
益田市では十数カ所の弥生遺跡が知られていますが、発掘調査によって弥生時代の後半期に属する防衛的、軍事的な性格を備えていたと考えられる遺跡が二ヶ所で見つかっています。
ひとつは高津川によって形成された広大な安富平野の山寄りの羽場遺跡。もう一つが高津川左岸の丘陵上にあり、県立万葉公園の拡大整備に伴い平成5年に発掘調査が行われ、竪穴住居跡が2棟発見されたサガリ遺跡です。
ひとつは高津川によって形成された広大な安富平野の山寄りの羽場遺跡。もう一つが高津川左岸の丘陵上にあり、県立万葉公園の拡大整備に伴い平成5年に発掘調査が行われ、竪穴住居跡が2棟発見されたサガリ遺跡です。
サガリ遺跡
竪穴住居跡の一棟は直径8.5mの大型の住居跡で、円形か、六角形の平面形と考えられ、背後には土手状高まりと幅1m余りの溝が巡っていました。もう一方の住居跡も同じような大きさと考えられましたが、半分は失われていました。
周囲からは壷、甕の口縁部に凹線文が巡らされた弥生後期の土器が多数出土しました。
周囲からは壷、甕の口縁部に凹線文が巡らされた弥生後期の土器が多数出土しました。
西日本の軍事的緊張を示す
サガリ遺跡の住居跡は標高50mの山頂で、冬には日本海からの寒風が吹きつける北向きの斜面に立地していました。農耕には不向きな場所ですが、日本海や高津川の下流域を一望できる見晴らしの良い山の上にあることから、瀬戸内地域で多数見つかっている軍事的な高地性集落に類似するもので、見張り台やのろしなどの通信機能をもった集落であった可能性が考えられます。
弥生時代の後半は、中国の歴史書「『魏志』倭人伝(ぎしわじんでん)」に「…倭国乱れ、相攻伐して年を歴たり」と記されたように日本の広い範囲で大きな戦乱がたびたび起こっていました。羽場遺跡とサガリ遺跡は、当時の社会情勢を反映して西日本の軍事的な緊張がこの地にも及んでいたことを示しています。
弥生時代の後半は、中国の歴史書「『魏志』倭人伝(ぎしわじんでん)」に「…倭国乱れ、相攻伐して年を歴たり」と記されたように日本の広い範囲で大きな戦乱がたびたび起こっていました。羽場遺跡とサガリ遺跡は、当時の社会情勢を反映して西日本の軍事的な緊張がこの地にも及んでいたことを示しています。
研石横穴
見つかった研石横穴
万葉公園の中央駐車場隣の多目的広場は、普段はバスケットやラジコンで楽しむ方が多くいらっしゃいます。
ここの整備中に一部陥没があり研石横穴が発見され、遺跡の実態を明らかにするために平成9年1月から2月にかけて発掘調査を行いました。
ここの整備中に一部陥没があり研石横穴が発見され、遺跡の実態を明らかにするために平成9年1月から2月にかけて発掘調査を行いました。
確認された遺構
横穴は崖面や山腹などの丘陵地の斜面を利用して構築される物で、古墳時代中期後半以降に出現した横穴式石室に準じた構造をしています。したがってその構造は遺体を安置する玄室と玄室に通じる羨門、羨道からなります。
研石横穴の玄室は長さ2.4m、幅2.48mの規模を持ち、羨道は長さ0.6mと短く、幅は0.5mで玄室の入口には羨門の閉塞に関係すると思われる石が埋め込まれていました。玄室から遺体を確認することはできませんでしたが、遺構の様子や出土した遺物から追葬はされなかったようです。
研石横穴の玄室は長さ2.4m、幅2.48mの規模を持ち、羨道は長さ0.6mと短く、幅は0.5mで玄室の入口には羨門の閉塞に関係すると思われる石が埋め込まれていました。玄室から遺体を確認することはできませんでしたが、遺構の様子や出土した遺物から追葬はされなかったようです。
副葬品は・・・
横穴の副葬品は土師器、須恵器、玉類や刀が主要なもので、横穴が大規模な古墳に比べて質素なもので大きな権力を持つ人物の墓ではなく、小集団の首長の墓として築かれたものであることを示しています。
研石横穴で確認した遺物はすべて玄室内から出土しました。出土したのは長さ3~4cmを測る金属片(釘状の小片)4点と須恵器が2点です。金属片は木棺を接合していた釘と思われます。
須恵器は玄室内南西部隅から坏(食物等を盛りつける器)と長頚壷がそれぞれ1点確認されました。時期はだいたい7世紀後半から8世紀頃のものと思われ、長頚壷は口縁の一部が欠けていたものの、ほぼ完全な形で出土しました。外反する口縁は口径12.3cmで、器高は23.2cmを測るもので頸部には太い沈線が 見られます。
坏は口径8.1cm器高5.1cmを測る比較的小さなもので、壷と同じ場所から出土しました。
研石横穴には後世の盗掘をうけた形跡は認められませんでした。にもかかわらず副葬品は質量共にかなり少ないことは特徴の一つと言えるでしょう。
研石横穴で確認した遺物はすべて玄室内から出土しました。出土したのは長さ3~4cmを測る金属片(釘状の小片)4点と須恵器が2点です。金属片は木棺を接合していた釘と思われます。
須恵器は玄室内南西部隅から坏(食物等を盛りつける器)と長頚壷がそれぞれ1点確認されました。時期はだいたい7世紀後半から8世紀頃のものと思われ、長頚壷は口縁の一部が欠けていたものの、ほぼ完全な形で出土しました。外反する口縁は口径12.3cmで、器高は23.2cmを測るもので頸部には太い沈線が 見られます。
坏は口径8.1cm器高5.1cmを測る比較的小さなもので、壷と同じ場所から出土しました。
研石横穴には後世の盗掘をうけた形跡は認められませんでした。にもかかわらず副葬品は質量共にかなり少ないことは特徴の一つと言えるでしょう。
益田市西部には珍しい横穴
研石横穴は古代の有力者を埋葬した墳墓の一種です。横穴は古墳時代後期(6~7世紀頃)に盛んに造られました。一般的に数基ずつまとめて構築される形態をとり、一定期間は追葬が行われるなど群衆墳に共通する家族墓的性格が認められます。
益田市内ではこれまでにも数カ所で横穴が見つかっていますが、いずれも群となって存在し市内中部以東に位置するもので西部では発見されていませんでした。
発掘調査を行った横穴の近くのサガリ遺跡では弥生時代の住居などが発見されていて、古くから人間が生活していた事がわかっていましたが、今まで横穴が発 見されていなかった場所でした。周囲の地形から横穴が群として存在する可能性も考えられます。これまでに横穴の発見例がなかった市内西部での発掘調査であり、益田市の古代史解明に貴重な資料を提供してくれたといえます。
益田市内ではこれまでにも数カ所で横穴が見つかっていますが、いずれも群となって存在し市内中部以東に位置するもので西部では発見されていませんでした。
発掘調査を行った横穴の近くのサガリ遺跡では弥生時代の住居などが発見されていて、古くから人間が生活していた事がわかっていましたが、今まで横穴が発 見されていなかった場所でした。周囲の地形から横穴が群として存在する可能性も考えられます。これまでに横穴の発見例がなかった市内西部での発掘調査であり、益田市の古代史解明に貴重な資料を提供してくれたといえます。
道標
長門道指道標
「水と青空の広場」から「万葉植物園」の入口付近、「四季の森」の山裾に『長門道指道標』が設置されています。
延宝9年(1681)3月に津和野藩主三代目亀井茲親の頃、高津柿本神社への参拝者のために設置されたといいます。
実際の設置場所は長州道と高津柿本神社への小間道の交差するところにありましたが、現在は園内の長州路の脇に移設保存されています。
当時は交通の頻繁な要路であったことが伺えます。
道祖神も当時の長州路のための物であったと言われています。
延宝9年(1681)3月に津和野藩主三代目亀井茲親の頃、高津柿本神社への参拝者のために設置されたといいます。
実際の設置場所は長州道と高津柿本神社への小間道の交差するところにありましたが、現在は園内の長州路の脇に移設保存されています。
当時は交通の頻繁な要路であったことが伺えます。
道祖神も当時の長州路のための物であったと言われています。
道祖神
道祖神
「石の広場」の入口に長州路を旅をする人の守り神として『猿田彦大神』の道祖神(どうそじん)が祀られています。(文政11年(1829)の銘あり)
道祖神は道路の悪霊を防いで旅人を守護する神です。江戸時代、猿田彦神を道祖神として信仰されていました。
道祖神は道路の悪霊を防いで旅人を守護する神です。江戸時代、猿田彦神を道祖神として信仰されていました。
ハンニャの面??現る!?
道祖神のとなりにある、樹齢200年以上のスダジイの木の周辺の下草刈りと枝打ちを実施したところ、ふと木の上を見上げると“ハンニャ”のお面に似た木のコブが現れました。
その不思議な形は、まるで道祖神様が木に浮かび上がってきたかのような神秘的な雰囲気を漂わせています。
ぜひ足をお運びいただき見ていただきたい場所の一つです。
その不思議な形は、まるで道祖神様が木に浮かび上がってきたかのような神秘的な雰囲気を漂わせています。
ぜひ足をお運びいただき見ていただきたい場所の一つです。
蟠竜湖疎水(間歩)
蟠竜湖自然公園(ばんりゅうこしぜんこうえん)
蟠竜湖は中須や高津砂丘と同じように偏西風と潮流のために、次第に吹き上げの砂丘ができ、谷間から流れ出る水がせき止められてできあがりました。
湖は上下の二湖(上部大ダライ、下部小ダライ)に分かれた淡水湖で周囲4㎞面積13ヘクタール、まるで竜がわだかまったような複雑な入り江があるので、明治の頃、漢詩人山路忠恭が命名しました。
蟠竜湖自然公園では鯉のえさやりやボート遊び、バス釣りなどが楽しめ、行楽の季節になると観光客の足音が絶えません。
湖は上下の二湖(上部大ダライ、下部小ダライ)に分かれた淡水湖で周囲4㎞面積13ヘクタール、まるで竜がわだかまったような複雑な入り江があるので、明治の頃、漢詩人山路忠恭が命名しました。
蟠竜湖自然公園では鯉のえさやりやボート遊び、バス釣りなどが楽しめ、行楽の季節になると観光客の足音が絶えません。
蟠竜湖疎水(間歩)
湖の東にあたる高津沖田の灌漑用水は4km離れた中西の市原から引いていましたが、しばしば破壊されて水の流通が思うようにならないので、永嶺嘉左衛門(ながみねかざえもん)が 宝永の頃、庄屋として高津に赴任すると、沖田と蟠竜湖の間は竜の山があるけれど距離にしてみれば数百メートルしかないことに目をつけて疎水工事を行い、宝 永四年(1707)十二月、竣工しました。
疎水は延長約180m、高さ、1.8~3.6m、幅45~60cmの縦長の素堀トンネル。
工事された当時は測量機器が無いためトンネルの出入口にロウソクを点て、その光を見通しながら掘り進められました。その結果ほぼ直線で結ばれているものの両側から掘り進められたためレベルに誤差が生じ、その結果中央部の高さが3.8mになっています。
蟠竜湖の下ダライをボートで漕いで、しばらく奥部に進むと、この縦に長い疎水のトンネルが見えて来ます。
疎水は延長約180m、高さ、1.8~3.6m、幅45~60cmの縦長の素堀トンネル。
工事された当時は測量機器が無いためトンネルの出入口にロウソクを点て、その光を見通しながら掘り進められました。その結果ほぼ直線で結ばれているものの両側から掘り進められたためレベルに誤差が生じ、その結果中央部の高さが3.8mになっています。
蟠竜湖の下ダライをボートで漕いで、しばらく奥部に進むと、この縦に長い疎水のトンネルが見えて来ます。
間歩の入口
正面駐車場から近くに人麻呂展望広場があります。人麻呂展望広場の入口横に奥へと続く道がありますが、そこを行くと間歩の口があります。
雨のあとは足下が悪くなりますのでご注意下さい。
雨のあとは足下が悪くなりますのでご注意下さい。
間歩の出口
県道蟠竜湖高津線の万葉公園正面入口と東口入口の途中、歩道側に「間歩の出口」の看板と「唯心居士頌徳日碑(ゆいしんこじしょうとくひ)」と書かれた記念碑と案内板が設置されています。
記念碑は大元神社に建立されていましたが、津和野より高津組庄屋として赴任し疎水工事を計画した、永嶺嘉左右衛門(ながみねかざえもん)(法名:還本釈唯心居士)の功績を残すためこの地に移されています。
記念碑は大元神社に建立されていましたが、津和野より高津組庄屋として赴任し疎水工事を計画した、永嶺嘉左右衛門(ながみねかざえもん)(法名:還本釈唯心居士)の功績を残すためこの地に移されています。